小説家になったからってお前

マライヤ・ムーと藤原無雨のブログ

ラッパーの先輩から来たスタートアップ

返信先: さん

解釈と 表現は自由やけど… 自画像。 脚色なし。 このやりとりが プロローグ。 自画像と返信されて ブログですな。と 返信した。からが 書き出し。 俺のこの返信も 今後の 返信もこのまんま 原稿。 ギャラは50:50。 これが はじまり。 さぁ やってみよう。

 

こういうことで始まった。

 

何を書こうか分からないと、ツイートした返信が「自画像」のひとこと。

ブログですな、と書いたらスタートアップが送られてきた。

 

自画像、脚色なし。

私は見栄っ張りだ。

 

物書きぶって見せているけれど、本当はどこまで知っているのか疑わしいところだ。

事実私自身も疑っていて、けれども人との対話の中で「何か」が顔を出すことがある。

誇らしいお化けのような何か。

これが小説に化けるのではないかと信じている。

 

何か書いていないと気が済まないのは、どうやら本当らしい。

これだけは、どうやら本当。自信がある。

 

精神障害者保健福祉手帳が2級になった。

曇りの日は死んでしまうほど憂鬱で動けない。

それが社会にラベルを用意させた。

ありがたいことでもあり、恐ろしいことでもある。

 

コメディが好きだ。

本来の私はお調子者だ。

エロくて笑えるものが好きだから。

そういうものを捻り出している。

 

どこまでも奥深い深淵が好きだ。

どこまでも遠い星々が好きだ。

本来の私は真面目なのだ。

思考の果てに辿りつく極北に憧れるから

そういうものを捻り出している

 

人と会うのが好きだ

人は怖くない。

しかし人との繋がりを求めることが怖い

そもそも私は人間に対して絶望している

 

絶望しているのに私にとって良い人間が

家族は別として少なくとも7人存在している

距離の遠近は問わず

これが本当に不思議なところだ

 

少し興味を惹かれることがあれば

その間だけ安心していられる

古い小説とか、ちょっとした短い動画とか

床の冷たさとか、ぼうっとしているという事実だとか

それがどうにも耐えられなくなったとき

それが俺に病名をつけている

 

ジョナサンで食事するのが好きだ

数少ない社会との接点

おばちゃんウェイトレスさんの接客は見事で

とても真似できないと絶望させられる

 

何かして働かなければいけないけれど

ドクターストップ

焦るな、病気を舐めるなと釘を刺される

ならば小説を書いていたいが

やはり題材というものが必要なのだ

 

自己表現は気楽だ

しかしエンターテイメントも純文学も自己表現ではない

ここがポイントで

つまりは自己に深く深く潜ってしまう私の性質が

ここではマイナスに働いてしまうことがある

 

外へ外へと意識を向けようと

元気があるときはアニメを観てみたり

あるいは散歩したりする

青い蜜柑、熟し過ぎた柘榴、南天(あの赤い実は本当に南天か?)、柿。

近所には雑木林があって

クモの巣にビクつきながらも歩くのが好きだ

 

自然主義はバカげているらしい。

しかし風景は重要だ

あらゆるもののプロセスが風景だから

これは純文学の話

ラノベでは読者が勝手に風景を想像してくれるらしい

それって寂しくない?

 

抗うつ剤は太る

その上、運動不足で

運動する気力が無いのだから

これはどうしようもない

それがうつ病というものだから

 

純文学もラノベも今は自己表現ではない

かつてそういう時代もあった

太宰治のひとこと「銅貨のふくしゅうだ」

こういう言葉が許された時代があった

 

過去現在未来で気軽に表現を語ることはできないけれど

少なくとも意識は外に向けていなくてはならない

そういう詩を10代のときに書いた

そういう傾向はおそらく今も変わっていないだろう

 

今日は高いカレーを食べた

チーズナンというのを初めて食べた

美味しいがこれはカロリーの塊だ

やってしまったと思った