備忘録
歴史の中に(他のすべての人と同じように)俺という人物がいたとして、後年その人生を俯瞰する人がいても「ふぅん」としか思わないのではないだろうか。そう考えると、とても救われた気持ちになる。
今まで生まれた1000億人の中のひとりの生き方に、果たしてそこまで拘泥する必要があるのか。運命の許す範囲の中で、好きに生きればいいんじゃないだろうか。
俺のこういった考えは、きっとホルモンバランスとかセロトニンの分泌量とかが導き出したポジティブシンキングに違いない。それでも今、そう考えたことには価値がある。
無から来て、無に帰るまでの短い時間に、頭が割れるほどの苦悩が詰まっている。しかしやはり、一生は短い時間だ。永遠に苦しむわけじゃないし、少なくとも今の俺は、その短い時間を人を悲しませてまで短縮しようとは思わない。
ありとあらゆる人間と同じ重さで、自分自身を見ることが出来れば、生きる苦痛はうんと軽くなるはずだ。
しかし痛み苦しみを伝えてくるのは、自分の頭蓋骨であり、みぞおちであり、全身なんだよな。それが問題だ。他人を見るのと同じ比重で自分自身を眺めることはとても難しい。
頓服を飲んでたっぷり寝たことで、今はとても冷静にいろんなことを考えられる。おかげで昼夜逆転してしまったが。せっかくだから、生きる苦痛を和らげること、もっと言えば苦痛などどうでもよくなるような思考について考えてみよう。
自分が1000億人の中のひとりだと考えるのは、宇宙について考えるような落ち着きを与えてくれる。この考えが、今朝のような抑うつ状態の自分に、どれほどの効果を与えるのかはわからない。
豊かな認知が、神経にどれだけの影響を与え得るのか。ひょっとすると、今考えていることは、抑うつ状態に入ってしまえば何の役にも立たないのかもしれない。私はただ機嫌が良くて、こんなことを呟いているのかもしれない。
抑うつ状態に入ったとき、俺はただ、神様、イエス様、と考えたりするのだけれど、大した効果はない。もっともこの事実はキリスト教の教えを否定するものではない。では、認知によって抑うつ状態から這い上がるのは不可能なのだろうか。
たとえば恋愛映画で涙を流すとき、感動とストーリーを分割して考えることができるだろうか。生きる苦痛と認知を分割するということは、おそらくこういう芸当に近いものがある。
恋愛映画で感動した後に、脚本の出来について考えていると、感動はフッと冷めてしまう。それに対して生きる苦痛、絶望や抑うつ状態は、皮膚的な痛みととてもよく似ていて、何かスイッチを入れれば解放されるということがない。
保育園児の頃、転んで膝を擦りむいたときのことを考える。私は膝に対して祈っていた。「怪我をしたことは分かった。血が流れているのも分かってる。だからこの痛みを止めて!」生きる苦痛とは、つまりこのようなことだ。
神経が思考に及ぼす作用と、思考が神経に及ぼす作用が、どれほどのものなのか私には分からない。抑うつ状態に陥ったときに「わたしは1000億人の中のひとりだ。奴隷であり、王であり、漁民であり、農民であったうちのひとりなのだ」こう考えることで、どこまで神経的な苦痛が和らぐのかは分からない。
思い出の中でさえも
死んでしまった女たちの声のような
雨がふっている
おお、雨のしずくよ
僕の一生の楽しいめぐりあわせよ
君らもふっている
馬のように暴れまわる
あの雨雲が
響きの市々の別天地をいななきだす
後悔とあざけりが
昔の音楽を泣いているひまに
雨がふるのを聞くがよい
上から下から
おまえを支える絆の糸が
落ちてくるのを聞くがよい
(アポリネール『カリグラム』より「雨」)
アポリネールはこの詩で出会いについて書いている。出会ったひとりひとりを雨に例えている。「君らもふっている」の「君ら」は、おそらく詩の鑑賞者であって「君」と呼びかけているのはアポリネール自身だろう。
そのアポリネールが、友人との出会いをたとえて「上から下からおまえを支える絆の糸」と書いている。リア充この上ない詩なのだけれど、この詩は今まで生まれてきた1000億の人間を考えるのと同じくらい、私たちの心を癒してくれる。
何も私は「出会ったことのない人間との絆」なんてことに言及したいわけではないし、そういうものは双方向的なものだから、ないと言っても良いと思う。同じような考えを持つ人がいれば、それはそれとして繋がりと呼べるのだろうけれど、本題はそれではない。
私が言いたいのは「雨」のもつ風景的な奥行きだ。「上から下からおまえを支える絆の糸」は身内や友人を思わせて感動的だけれど、アポリネールは風景を遠く霞ませる無限の雨を敢えて無視している。
敢えて無視するということは、示唆しているということだ。無縁の人々が降っている。1000億人の雨粒が降っている。この事実がどれほど大きな意味を持つことだろう。