小説家になったからってお前

マライヤ・ムーと藤原無雨のブログ

書く習慣を取り戻すための文章

書く習慣を取り戻さなくてはならない。

机の前でずいぶん苦しんだ。

頭をぐるぐるしていても始まらないから、ともかく指の動かし方を思い出すのだ。

 

ということで、この文章を書いている。

意味のない手遊びではない、というか手遊びは常に意味を持っている。

だから各関係者の方は「駄文書いてる場合じゃねえだろ」と言わずに見守っていて欲しい。

 

書くことは何も決まっていない。

書きながら考えているのは、小説を書くときと同じだ。

小説と違うのは、場と人物が決まっていないということに尽きるかもしれない。

こればかりは事前になくては小説にならない(現在はまだ)。

 

今、ガネッシュというブランドのインド香No.8を焚いている。

箱の文字を読んでみると「PERFUMES OF A SPRING MIST」ということで、春をイメージした香りだったのかコレは。

 

……というふうに、文字に起こすということは、普段気にしていなかった事柄を嵌め込まなければ成立しない場合がある。

書くという行為自体が、未知のものを求めている。

 

文章という形式が、ジグソーパズルのような枠組みを作るのか、それとも執筆という行為が具体的な知識を吸い込むように求めるのか。

そこはまだわからないところだ。

 

書こうと思えば書けるじゃないか。

私の筆はなかなか止まらないし、この文章はけっこうなペースで書かれている。

推敲もせずに提出するつもりだ。

 

このあたりで大丈夫だろうか、まだまだ粘った方が良いのだろうか。

明日こそ小説を進めたいものだ。

これは良い準備運動になっただろうか。

 

小説を書いているときほど、存在が濃密なことはない。

自己の存在といってしまうと小さすぎて、空気のようなものが濃密になる。

神経が細かな針のように立ち上がってくる。

外へ、もっと外へ!

新しい小説を書くということ

 281枚の小説を書き終えました。

 1ヶ月かかりませんでした。

 書くという行為が走り始めたら、調子が良いようです。

 

 今まで書いたことのない形式の小説を書きました。

 もちろん、読んだこともない形式です。

 形式だけが小説の新しさではありませんが、新しい形式が新しい小説を牽引するということはあり得ると考えています。

 そういった小説です。

 今は興奮しているのか、脱力しているのか分からないような状態です。

 ただ文字を打つことに幸せを感じています。

 

 今の小説を寝かせて、査読してもらっている間に、ドゥルーズの『差異と反復』を読むつもり。他にも、いろいろ。

小説を書き終えて

書けないな、書けないなと思っていると、不意に思いついたことがありました。

一幅の白馬の絵です。

暗い中で首を振り上げている白馬の絵です。

それをもとにして小説を書き始めると、ひと月もかからずに小説が完成しました。

何がどう転ぶかわからないものです。

まったくわからない。

 

そうして今、読書期に入っていて、またドストエフスキーに手を出しました。

以前は『カラマーゾフの兄弟』、今回は『罪と罰』。

ドストエフスキーはすさまじい勢いで筆を進める作家なので、ふとすると意識が完全に小説世界へ持っていかれそうになります。

思考の余地が残らない。

これは良くない読み方です。

 

あくまで冷静に、何が面白いのかを見つけながら、しかし斜め読みはせず。

ちゃんとリスペクトを持って読み終えられればなと思います。

 

他には、

保坂和志『未明の闘争』

フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』

ミシェル・ウエルベックショーペンハウアーとともに』

など。

円城塔『後藤さんのこと』は、読むのが少し先になりそうです。

小説のインターバルについて

一篇小説を書き終えて、大小説をひとつ読んだ。
なら次も書けるだろうと新しいものを書き始めたのだけれど、その小説にはどうも新しい問いが入り込む余地がないような気がするのだ。
 
小説を書くためには問いが必要なはずだ。
問いをため込むには時間が必要である。
しかし時間は神経を鈍磨させる危険性を持っている。
怠惰な生活者になろうとする傾向を私は持っているから、するとこれは危険な賭けだ。
危険を減らすために、たとえば考える時間を1週間とか、区切ってみていけば良いのだろうか。
そうして、記録する。
感じた問いは記録すること。
別に具体的でなくても良い。
ひょっとすると具体的でない方が良いのかもしれない。
 
 
フェルナンド・ペソアの『不穏の書』から以下を引用する。
 
「私がどんな感覚も記録しなくなってからずいぶん長い時――数日なのか数ヵ月なのかはわからない――がたった。もはや私は考えない、ゆえに、私は存在しない。私は自分が誰なのかを忘れてしまった。もはや存在することもできないのだから、書くこともできない。斜めに進む微睡みによって、私は他者だった。想い出さないことを知ること。それが目覚めだ」
 
ペソアのインターバルはすさまじい。
私はインターバルに、人と会わなくてはならない。

群像新人賞

3次予選通過、というところで終わってしまいました。

 

けれども、そこまで行ったのがおそらく初めてで、やろうとしていることは間違いではないのだなという、ひとまずの安心を得ることができました。

 

今までの応募すべての結果を確認してきたわけではありませんが、4次予選を通過したら電話が掛かってくるらしいので、おそらく初めてのことでしょう。

 

小説を書いて新人賞に応募し続けるというのは不安なものです。

自分が目指している文学観が、人に受け入れられるのか。

実は傑作であったものが、下読みの方に誤って落とされたりしているのではないだろうか。

そんな下品なことを考えたりもしてしまいます。

 

いけませんね。

良い小説を書こう、とまずはここからです。

コンサータの効き目

コンサータの効き目がすごい。

本がしっかり読めるようになりました。

これだけでもすごくありがたい。

このひと月で10冊以上読めてます。

 

ただ、うつには良くない薬なので、あとでドッときたりしますけれど……。

 

それでも、うつうつと何もできずに、動物園の熊みたいに部屋を歩き回るよりは、ずっとマシなのです。