小説家になったからってお前

マライヤ・ムーと藤原無雨のブログ

ADHDとその生育歴

 

ADHDについて

 

私はADHDと呼ばれる発達障害者です。

精神障害者手帳も持っています。

 

ADHD(注意欠陥・多動性障害)というのは発達障害のひとつで、

wikipediaを丸写ししてその症状を列挙してみましょう。

 

不注意(inattention)には、以下の症状などがある[13]

  • 簡単に気をそらされる、細部をミスする、物事を忘れる
  • ひとつの作業に集中し続けるのが難しい
  • その作業が楽しくないと、数分後にはすぐに退屈になる

過活動(hyperactive)には、以下の症状などがある[10]

  • じっと座っていることができない
  • 絶え間なく喋り続ける
  • 黙ってじっとし続けられない

衝動性(impulsive)には、以下の症状などがある[10]

  • 結論なしに喋りつづける
  • 他の人を遮って喋る
  • 自分の話す順番を待つことが出来ない

 

こんなふうにつらつらと挙げてみると、まあ大変な障害だなあ、と、

なんとなく思うものですけれど、実際にADHDを目の前にして、

あなたはどう思うでしょう。

 

では、ひとりの社会人として見てみましょう。

 

彼はまた、いつものように遅刻をしてきました。

いつもどおり注意はするのですが、聞いているのだか聞いていないのだか、

彼の態度からは良く分かりません。

 

仕事が始まっても、彼はミスばかりします。

普通に注意していれば避けられるミスばかりです。

注意しても、メモはとっているようですが、それが生かされているとは思えません。

メモをとるのは、ポーズでやっているのでしょうか?

 

かと思えば、彼はひとつの仕事に全力を注いで、

それなりの成果を出すこともあります。

それによって表彰されたり、昇給したりもします。

 

けれども、いつものミスはなおりません。

そしていつしか、取り返しのつかない重大なミスを犯し、

彼は職場にいられなくなりました。

 

と、こんな具合です。

そう、完全な社会不適合者なのです。

 

小学生時代

 

私が子供の頃は、今以上に発達障害が世に知られていませんでした。

 

小学生のときに、祖母から紹介された医者に行ってADHDと診断されても、

学校の先生からは「勉強ができるのにただサボっている生徒」としか見られず、

いつも罰を受けてばかりいたので、たびたび学校を脱走していました。

 

小学校すらまともに通えていなかったのです。

 

私は子供心に思っていました。

 

「大人に守られている現在ですら、僕はみんなについていけていない。

 このまま大人になって、社会に放り出されれば、僕は死ぬしかないだろう。

 生き残るには、博士のような専門家にならなければいけない。

 そうしないと、僕は電車に飛び込むことになるぞ」

 

中学生時代

 

中年になった自分が、電車に飛び込むところをよく想像しました。

宇宙に詳しいハカセになって、ノーベル賞を受賞する自分も同じくらい想像しました。

 

私はハカセになるために、それなりにですが勉強をしました。

中学校に入ってからも、テストでは良い点数を取りました。

 

ADHDの症状は根性がないからなのだと決めつけて、

根性をつけるために剣道部に入りました。

 

文武両道が正しい道だと信じていました。

 

しかし発達障害者は総じて運動が苦手な傾向があります。

私も毎日吐くまで練習しても、一度も勝ったことはありませんでした。

 

そして中学2年生になったとき、不登校になりました。

いじめられているわけでもないのに、

学校に行こうとすると突然お腹を下すようになったのです。

 

自律神経失調症からくる過敏性腸症候群と診断されました。

 

それも三年になるとどうにか治まって、学校に通えるようになりました。

 

しかしADHDからくる社会不適合な部分(遅刻、授業に集中できないなど)

で先生の不興を買い、内申点は底辺校にも進学できないようなひどい有様でした。

 

高校生時代

 

それでもなんとか勉強を続けて、成績5位だか6位だかで、スーパーサイエンスハイスクール進学校に入学することができました。これでハカセになれる!

学校の寮に入って、新たな生活に胸をわくわくさせていました。

 

ところが、またADHDです。

連日の、遅刻、遅刻、遅刻。とうとう出席日数が足りなくなり、留年。

そしてとうとう、通信制の高校に転校することを余儀なくされました。

 

レベルの低い通信制から、奨学金をもらって大学に行くなんて無理だ……。

そんな考えで、まるで抜け殻のような生活が始まりました。

 

通信制の学校ですから、家族の手前、バイトも始めなければなりません。

しかし、ミス、ミス、ミス、遅刻の繰り返し。

毎日怒鳴られ、尻を蹴られ、私は胃薬を飲みながらバイトに通いました。

 

気付けば学校を卒業していて、私は抜け殻のまま、気付けば学校を卒業していました。

 

社会人になって

 

それからは、仕事に就いては必死に働いて成功し、次いで失敗して出ていき、

それを10年ほど繰り返すうちに、とうとう仕事で交通事故を起こしました。

 

そのときいた職場は、交通事故には極めて厳しい所で、

まず上司に密室で厳しく叱責されます。

それから会議室で、営業部の全員と上司の前で長い自己批判をさせられ、

何故交通事故を起こしたのか、営業部の全員から細かい質問を受け、

(彼らも質問をするよう指示されています)それらにひとつひとつ答え、

最後にもう一度自己批判をして、深く深く頭を下げてミーティングを終えます。

 

翌日からは上司を助手席に乗せ、また叱責されながら運転訓練を

何週間も続けます。その間に、すっかりやつれ果ててしまいました。

 

(交通事故を起こさず運転できますように……

 交通事故を起こさず運転できますように……)

 

毎日神に祈って運転し、それでも二度目の事故を起こしてしまいました。

私は遠いところに住んでいる友達の家に逃げました。

 

しかし、突然泣き出す、気絶するなどの症状が出始めたため、

メンタルクリニックを受診すると、うつ病だと診断されました。

 

今は働くことを医者から止められています。

 

これがいち発達障害者の成育歴です。