なぜ小説なのか
ある立体作品との出会い
昔、岡山かどこかの美術館へ竹久夢二の展覧会を見に行った時のことです。
夢二の絵を見終わった後に、常設展の立体作品を眺めていました。
そのときに、ひとつの作品を見つけました。
背板の無い本棚のような物体が、油粘土でできたようにぺたりと崩れています。
つるりとした陶器で出来ていました。
※私には絵の心得がありません。実物はもっとよりグンニャリと、その構造に従って重力に身を任せていたはずです。
そのときはなんとも思わずに眺めていたのですが、家に帰り、毎日を過ごします。
その中で、徐々にある疑念が湧き上がるようになりました。
直線への疑念です。
我々の暮らす風景は、直線に溢れています。電柱、家々、塀、ガードレール。
家の中では、机、ディスプレイ、オーブントースター、冷蔵庫、それらの輪郭。
めまいがするほどの直線の嵐!
それに今まで気が付かずに生きてきたということです。
作品に世界の見え方を変えられた瞬間でした。
変えられた経験は、また同じように人を変えたい、
人の認識に侵食したいという欲望へと変化していきます。
「もっとも単純なシュルレアリスム的行為は、両手にピストルを携え、街に出て、群衆めがけ、せいぜい出まかせに発射することである。」
私も、他人をこうしてやりたい!
まっさらで新鮮な呪いをかけてやりたい!
その手段として、私には小説以外には思いつきもしませんでした。
太宰治との出会い
はっきりいって今私が書いている小説に、
太宰治の影響はほとんど無いといっていいでしょう。
また、影響を受ける必要性も感じません。
しかし彼の小説は、未だ読者に必要とされるものです。
彼の小説は深い共感を呼び起こすからです。
彼の小説はピストルではなくて、甘い蜂蜜なのです。
私が太宰治の小説と出会ったのは、高校生のときでした。
彼の甘い蜂蜜は、将来への失望に爛れ切った私の胸に沁み渡りました。
私は彼の全著作を貪るように読みました。
太宰治ほど読みやすい、いわゆる文学小説は無いのではないでしょうか。
そのうちに自分でも、小説を何篇か書くようになりました。
私が当時書いた小説は、疲れ切った少年が何かに慰められるようなものばかりで、
(『新樹の言葉』に、大きな影響を受けていました)
とても読めたものではなく、全部捨ててしまいました。
しかしそれらのつまらない作品群によって、
小説を書くという運動が私に染み付いたのは確かなことです。
祖母の言葉
祖母は認知症が進んで、今は神戸の老人ホームにいるのですが、
私が小学生の頃は、よく旅行に連れていってくれたものでした。
夕陽のグラデーションの中、黒い切り絵となった明石海峡大橋。
景色に圧倒される短い時間を過ぎると、私は子供らしい物思いに沈んでいきました。
祖母とふたり橋を眺めながら、私は言いました。
「きれいな景色が、ものを考える土台になるんやと思う」
すると、祖母はこう答えました。
「あんたは、何かものをお書き」
案外、祖母のこの言葉ひとつなのかもしれません。